「夫のちんぽが入らない」に書かれていない問題
やっと読みました、略して「おとちん」。
私は著者こだまさんの「ここは、おしまいの地」を先に読んでいた。
文章うまいわ、比喩おもしろいわ、人も自分もよく観察していて起きている“事件”は深刻なのに笑えるのが最高だった。すげーな。
だから「おとちん」も読もうと思った。
その「入る、入らない」問題の深刻さより気になったのは、こだまさんがダンナさん以外の方に抱かれて「良かったのか、悪かったのか」、もっとズバリ言えば、「感じたのか、感じなかったのか」、そこには一切ふれてないこと。不思議だ。
わざと書かない?
それとも端から頭になかった?
「入る」という結果だけが大事だった?
「入らなかった」のにセックスができるようになると、次に意識が向かうのは「感じるのか、感じないのか」「この人とはいいのか、悪いのか」だと思うんだけど、それは問題外のよう。全く記述がない。なぜなのか。
こだまさんがベッドを共にするのはネットで出会った人。
それで「入って」も続かなかったということは、結局、好きな人が現れなかったのだろうか。ダンナさんより好きになってしまう人が、もし現れてしまったら、この告白本も出版されてなかったかもしれない。
なぜなら、「おとちん」は、著者もダンナさんもいわゆる“浮気”をしているのに、それでも離婚せず相手が好きで結婚生活が続いていることに価値があるから。こだまさんに好きな人が現れて離婚してしまったら、この本の驚きも半減する。
こんな夫婦がいてもいいんだという肯定。
そこが「おとちん」の最大のキモ。
それを考えると、「感じる」とか「気持ちいい」を全く省いたのも当然か。
他にも「おとちん」には、まだ何か書いていないことがあるような気がしてならない。
人と話すのが苦手なのに教職、しかも小学校の資格を取ってしまうのも飛躍がある。小学校の教員免状は、全教科に体育に音楽まであって大変。ハンパない。その大変さにもあまりふれていない。私の友人は免状を取るのにずいぶん苦労していた。採用試験だって、なかなか受かるもんじゃない。しかし、こだまさんはスラスラいっている。
身内に一応友だち付き合いは普通にするけど、極端に内気な者がいる。
彼女は教職を取るという思考の入口にまで、絶対に辿り着かない。圏外で論外だ。
なので、こだまさんが大勢の人の前に立つことのある教職を職業に選んだのが本当に不思議。「スイッチが入ると大丈夫」なようだけど、そういうスイッチを持たれていて、自覚がおありなのもすごい。そのスイッチの仕組みをもう少し詳しく教えてほしかった。
こだまさんは、自分のスマートさ、賢さは決して書かない。
「上から目線」という言葉があるが、反対に「下から目線」にとことんこだわる。
本当は「感じた」のか。
スイッチにはどんな謎があるのか。
私は、もう少し知りたかったと思うのでした。
ストーカー
ブスに分類される自分はストーカーされない。
そう安心しきっているが、ごくたまに執着されることがある。
今年に入って、ある人から頻繁にメッセージをいただくようになった。
メッセージには返事をする。それがマナー。
そう思っている私は真面目に一つひとつに返答した。
すると、朝に夜にメッセージが届く。
「行ってきます」。なんで私に言う?
「こんばんは」。挨拶文のみ。どう返事をしろと?
メッセージの送り主とは、一度、ギャラリーで会ったので顔見知りではある。
それが「年賀状を出したいから住所を教えて」に気軽に応え、「一緒に美術館に行きましょう」に女友だちと同じように考えてOKした。
私にはそんなところがある。
男性から誘われても、特別な感情はまるでないと思ってしまう。
しかし、それがいけなかった。
美術館後、メッセージの頻度が加速した。
返事をしなければ、FBのコメント欄で「今、○○にいるのですか?」と聞かれる。
まるで監視されているよう。
相手は私の住所まで知っている。
20年ほど前に手話サークルで住所教えてと言われ、教えたおじいさんから付きまとわれたことがある。彼は本当に家にやってきた。プレゼントと言ってサボテンの鉢を置き、夫や息子がいる前で私を抱きしめた。それを思い出した。
やばい、なんとかしなきゃ。
ストーカー君には、はっきり丁寧に断った。
一緒に美術館に行ってから2週間も経ってない頃に、何度も下書きをして推敲したメッセージを送った。
その人から今までと口調が違うではないかと若干キレられたが、特別な感情はないことはわかってもらえた。
ストーカーする人は、自分がストーカーだという自覚がまるでない。
自分の気持ちが大切で、一番で、そこしか見えてない。
こちらが怖いと思っていることにも全く気がつかない。
だから、言葉にしてはっきり「怖い」と言うしかない。
それでキレる人は、本当に怖い人だ。
「迷惑です」「連絡しないで」は、相手を責めているかのように取られるから、「すみません、怖いんです」と、自分の感情だけを伝える。
それ以降は絶対にこちらから連絡をしない。
真面目に返信なんかしなくていい。
人によってはブロックする。
それがストーカー対策の一番の方法・・だと思う。
原因探しをしてはいけない
仕事や受験での失敗は原因を探って、二度と繰り返さないことが大切である。
とは、よく言われることだが、人生における諸問題は、ときに原因探しをしない方がいいのではないかと思う。
なぜなら、それをすると、ドンドン思考が行き詰まって、結局、自分を痛めつけかねないから。
例えば、私の場合、人生途中で失聴してしまったのだけれど、その原因を医学的に探るのはよいとして、私の人生で何か意味があるのかと考えすぎるのは、よくないと思う。
失聴と私の人生を考えたとき、悪いことの方が多かった。
しかし、聞こえないことで助けを求めた人との繋がりができたり、聞こえない世界を身をもって体験でき障害者にも悪い人がいっぱいいることを知り、それまで全く知らなかった手話が身近になった。新聞の企画に難聴を取り上げてもらったこともある。
よいことだってあったのだ。
だからといって、そういう「よいこと」と失聴を恣意的に結びつけ、失聴はそうした「よい」繋がりをつくるためだった、とは考えたくない。
結果は単なる結果だ。
それらの結果は、聞こえないという原因があったからというより、聞こえないから自然にそうなっただけだ。聞こえていても、いや、聞こえている方が「よい」つながりができやすかったかもしれない。過去に戻って健聴な自分を過ごすことはできないので、これは「たら、れば」の推測にしかならないが。
病気でも会社の倒産でも、原因がわかればスッキリする。納得する。
しかし、スッキリしたいがために原因を突き詰めることに熱中しすぎると、いつのまにか大きな穴にはまって抜け出せなくなる。気鬱になる。原因は実は複雑で、何なのか、はっきり決めにくい。シャーロックみたいに簡単には割り出せない。
原因を考えすぎて身体も心もガチガチになったら、考えることをしばし手放す。
ちょっと散歩でもしてみる。
おののく
自分の書いたものを読み返すと、自分におののく。
わあ、愚痴っぽい。
わあ、責任転嫁。
いつまで「うらみはらさでか」でいるのか。
いつから、そんな風になっちゃったのか。
ああ、こだまさんはすごいな。
読後、晴れやかな気持ちになる。
そっち方向を目指したい。
けれど、いまは愚痴でも何でも、出す。
ずーっと胸の内に気持ちを貯め込んでいると、
そのうち、自分がわからなくなってくるから。
向かいたい先も見えてこないから。
定番のフレーズを信じ込むこと
8月のことだ。
FBで冗談めかして、「夏休み、息子が帰ってこないと言う。ぐれていいですか」と書き込んだ。
息子はこの春から中国地方の会社に勤めている。
夏休みは帰省するのか、しないのか。さっぱりわからない。
いつのまにか私の中では、息子から帰ってこないと連絡があったことになってしまった。
はっきり連絡があれば諦めもつく。
なので、そう思い込み、事実を誤認した上、「ぐれていいですか」と書き込んだ。
笑いを取ろうとしたのだ。
この投稿に、「いいかげん子離れしなよ」と二人からマジレスがついた。
バッカだなあと笑ってスルーされると思っていたこちらは、そんな反応が返ってくることをこれっぽっちも想像してなかった。
しまった。やっちまった。
子離れできてないのは本当だとして、軽い冗談めの発言に真面目な反応というのが、まず、むずがゆかった。
そして、私の厳しい家庭や身体の事情も知らないで、いや、知らないのは当然だが、簡単に「子離れしなよ」と言ってほしくなかった。
そんな定番の言葉をあてはめてほしくなかった。
私は南アフリカ共和国で第一子を産んだ。
息子が生後半年で日本に戻ってきたとき、それまで徐々に進行していた難聴が決定的に悪くなっていることに気づく。
つまり、子育てと障害が一気にやってきた。
加えて、日本に戻って来てから、夫もおかしくなってしまった。
夜泣きのひどい息子に、聞こえなくてなかなか気づかない反応の遅い妻。
車通勤ができたアフリカと違い、日本の仕事環境に慣れなかったのだろうか。
夫は家に帰らなくなった。
実家の母は、私が聞こえなくなったと知ったとき、「そんなんで子どもの言葉は大丈夫なのか」と、私の耳より子どもの言葉の発達を心配した。
抱っこも母に非難された。
「抱き癖がつく」
夫もその言葉に荷担した。
二人とも、子どもは放置して育てろと私にプレッシャーをかけ続けた。
私の育児は今で言うワンオペになり、同時に夫は遊びで借金をつくるようになった。
泣く子どもと、泣くサイフ。
給料まであと3日間なのに、手持ちの現金は500円。
そんな日々。
離婚も、もちろん考えたが、聞こえない身ではアパートも借りられない。
まずはと、自宅でできる仕事を始め、家事と仕事と子育てにクルクル。
小学校6年では学級崩壊と登校拒否。
いきなり家を飛び出して帰ってこない息子は、警察で保護されていた。
そんな中、40年ぶりぐらいに田舎の友人と連絡が取れ、「私立中はよいよ」と勧められた。
学級崩壊の件で、担任の先生や校長、教育委員会とやりとりするなか、保身に走られたり、いい訳を並べられたりして、私は公教育に不信感をもっていた。
息子には、先生や同級生とフツーに楽しく過ごしてほしかった。
それで小6の12月から、いきなり中学受験の準備。
中高はおだやかな学校で楽しく過ごすも、大学受験では2浪。
その間、ずーっと借金の催促(請求書)が届く。
マンションローンの借り換えは、私が銀行に出向いて筆談で対応してもらってやった。
なんとか返済は1年繰り上がった。
けれど、私立の学費とローンと夫がつくるキャッシングの請求がある。
問題は子どもが巣立つまでの26年間、続いた。
このぐらいの「事件」はどこの家庭でもあるかもしれない。
私立大学に院まで含め6年間通わせられたのは、まだよい方かもしれない。
けれど、聞こえない私にとって子育ては、何か問題がある度、確認に手間取り、時間もかかり、負荷の重いものだった。
そうしてやっと巣立ったのだ。
「ぐれていいですか」の言葉が悪すぎたとしても、夏休みに息子が帰ってくることを楽しみにして、何か問題なのだろうか。
そんなに子離れができてないなら、地方への就職を勧めたりはしない。
なかなか就職が決まらない息子に地方はどうかと勧めたのは私である。
たとえ都内の会社になっても、一人暮らしはしてもらうつもりだった。
それを「子離れができてない」と単純に非難されたくない。
こちらの事情も知らないのに。
いや、むしろ知らないから言うんだよね。
知らないし、その方たちは子育ての経験がない。
ただ、「子離れができない母親はみっともない」と、そういった風潮に、考え方に、定番のフレーズに、二人は乗っかったのだろう。
個別な事情ではなくて、社会のあやふやな空気にあてはめられての批評が悔しい。
うん、正直、そういうことなんだ。
ピッピへの複雑な感情を解放する
ピッピといえば、「長くつ下のピッピ」の主人公以外、考えられない。
それほど深く印象に残った、約50年前のNHK少年ドラマシリーズでの放映。
主題歌、まだ歌えます。
“チョラホップチョー ララララ チョラホップ サンサ
なーがくつしーたのピッピって知ってるかい
すてきでかーわいい わたしのことよー”
*東京富士美術館にて タスペトリー
このドラマはいったい何!
田舎の子どもであった私は、ぶっ飛んだピッピの行動に目も心も奪われた。
子どもが一軒家で一人で生活?
好きなものを食べて、大人より強くて、掃除は靴がデッキブラシになったものを履いてその辺を歩き回れば終わり。
ペットは犬とか猫でなくサルで、馬も一緒。
そりゃもう自由なんてもんじゃない。
お金はどこから得ているの??
変な心配をしつつ、ピッピの屈託のなさが印象的でした。
放映から数年後。
高校生になった私は兄の真似をしてZ会に入ってみた。
「東大に受かるために友だちはつくらない」
そう宣言して実行し、塾など行かずにZ会だけで現役で東大に合格してしまった。
信号もない田舎で。
村はもう大騒ぎ。
地方紙にインタビューまで載る始末。
しかし、だ。
兄は、兄弟姉妹にとっては誇らしくもあり、目の上の大きなたんこぶでもあった。
勉強机が同じ部屋にあった私は、英語の朗読をすれば「へたくそっ!」と言われ、成績はいつも兄と比べられた。勉強しかしない人と比べられてもな。いったいどこがおもしろくてあんなに勉強ばっかり。祖母から渡されるお年玉も、兄だけ多い。全く迷惑だ。
誇らしいのか迷惑なのかと聞かれれば、当時は迷惑の方が大きかった。
兄は存在自体が、他の兄弟にとっての「いじめ」でもあった。
そんなある日。
私は兄のヒミツを知った。
Z会は成績優秀者を冊子に載せるのに、ハンドルネームを採用していた。
兄はよく掲載されていたが、そのハンドルネームが、なんと「ピッピ」。
「え、ピッピ、好きなんだ・・」
兄のロリコン的な性格には気づいていたが、そうか、ピッピか。
それからは、ピッピといえば兄との嫌な思い出がセットになってしまった。
私は父からは暴力をうけ、母からは暴言をはかれた。
しかし兄は聞きわけが良すぎる子どもで、両親とも兄への接し方は私とはまるで正反対。兄の言うことなら何でも聞いた。
とくに嫌だなと思ったのは、お金のかけ方。
長男だからというのもあったのだろう。
兄にはいくらでもかける。そんな両親の意気込みが感じられる。
それに対して残り3人の兄弟は、「それなりに」でしかない。
本当はそうではなかったのもかしれないが、兄以外の3人は「カス」というか「おまけ」。
特に私は顔もよくなくて、やたらと反抗し、仮病をつかい、親にケンカをふっかけ、何にも誉められることなく育った。
心の奥深くに沈んだ兄=ピッピに対する怨念。
怨念は言い過ぎか。
けれど、ピッピと聞けば、Z会から報奨金までもらっていた兄が一瞬で思い出される。
そんな私の複雑な感情も、今年の夏、八王子の東京富士美術館でやっていた「長くつ下のピッピの世界展」で溶けた。
そこには純粋にピッピだけがいた。
作者リンドグレーンは何より暴力、虐待、不正を嫌った。
そこに私の勝手な怨念を持ち込むのはおかしい。
もうピッピと兄を結びつけて考えるのはよそう。
ピッピはピッピだ(そして兄は兄だ)。
この展覧会でスウェーデン版の挿絵を描いたイングリッド・ヴァン・ニイマンが女性だということを初めて知った。ニイマンは浮世絵に興味を持っていて、ピッピの挿絵にもその影響がいたるところにあるそうだ。
ピッピの目がちょっと吊り目で小さいのも、日本人形に似せているのかも?
学芸員さんがそう説明する。
40年。
私の中のピッピを解放するのにかかった時間だ。
ようこそ、新しいピッピ!
*東京富士美術館にて ニイマンの絵
チビの死
去年の3月28日、チビが死んだ。
チビは公園の桜の木に登って降りられなくなっているのを、まだ小1の息子がつかまえてきたコだ。息子は捨て猫らしいチビを飼うと言ってきかず、その公園には車で来ていたのだが、チビを抱え込み車から出なくなった。
じゃ飼うしかないか。
そうして家のコになった。
チビという名も息子が付けた。
単純に小さいからという理由。小学生らしい。
でも本当は「チビラ」という名なのだ。ゴジラやガメラと同じように。しかし、誰も本名では呼ばなかった。当然だ。「チビ」の方が呼びやすい。
目が青く、気の強い女の子だった。
その目の青さが珍しがられ、皆から「かわいい」と言われた。
煮干しとおかかとブロッコリが大好きで、息子の腕枕で寝た。
そんなチビも18歳頃から不調が目立つようになり、週に何度もお医者さんに連れていくようになった。足腰が弱り、顔をあげて歩けなくなり、まるでゾンビのようになったときは、もうダメかと思ったが、ビタミンKが不足しているとのことでビタミンKを飲ませると復活した。
よかったよかったと思ったのも束の間。チビは徐々に体重も食欲も減っていき、それらは決して元に戻らなかった。
そうして3月26日の土曜日。
「何も食べないんです」とお医者さんに駆け込んだ。
点滴をしてもらい、お医者さんと話しているうちに、お医者さんの言葉のハシから「もう本当に終わりなんだな」と思った。
翌日曜日。
お医者さんに連れていくかどうか迷ったが、静かにさせてあげようと思った。
水さえ受けつけなくなってから2日が経っていた。
そして日曜の深夜。
まだ息をしているチビを確認して、私は1時半頃に休んだ。
息子は2時近くまで起きていて、そのときもチビは生きていたそうだ。
しかし、朝の5時半。ハッと起きて駆け寄ると、チビは硬く冷たくなっていた。体温のかけらもなかった。
私はチビを抱いて見送ってあげることができなかった。
それが今でも心残りだが、チビは私に「死の尊さ」を教えてくれた。
「死って生と同じぐらいに、いや、それ以上に尊い」
ガツンと教えられた。
どういうことかというと。
細胞が死に向かうと、地球上のどんなものをもってしても、どんな人であっても、止めることができない。多少は遅くすることができても、ストップはかけられない。死は、その人独自のもので、誰からも邪魔されるものではない。生よりオンリーワンなものなのだ。生は、他人から干渉を受けやすい。あれこれ口出しされたり、意に染まないことをやらないといけなかったり。しかし死はもう誰も干渉のしようがないのである。死んでいくことは、その人だけのものだ。
そこに死の「尊さ」があるんだなあと。
だからこそ、その人の死を勝手に奪ってはならないんだなあと。
そういうことをチビから教えてもらったのでした。