ママモビルスーツ
最初に断っておきたい。
私がいう「モビルスーツ」とは、人の形をした硬いスーツで、ぎくしゃくした動きしかできないロボットのようなもので、宇宙服の方がイメージとしては近い。スパイダーマンの「お洋服」のカチカチ版だ。
さて、「ママモビルスーツ」。
子どもが生まれた途端、私は「ママモビルスーツ」を着込んでしまったように思う。
母親として、「あれをしなくちゃ」「こうでなければ」と自分を追い込んだ。
理由はたくさんある。
現実的に子育ては、あれもこれも待ったなし。
赤ちゃんのときは授乳におむつ替え、少し大きくなると離乳食にトイレトレーニングときて、学校に入れば学校からの(全ての持ち物に名前を書くなどしょうもない)指示に従う。
息子が小学生のとき、いきなり「明日、レジ袋を持ってきて」と言われ、でも、私はレジ袋はもらわない主義だったから家になくて、そのためにわざわざ買い物に出たことがあった。何か変だなと思っても、我が子に「レジ袋は家にありません」と言わせる度胸は私になかった。
「ママモビルスーツ」を毎朝カッチリと着込む。
さあ、出動だ。
ご飯をつくる。洗濯をする。掃除をする。猫の世話をする。回覧板に目を通し隣に持っていき、家の中で仕事をする。バンバンやっつける。
一つやっつけてもまた一つ。減っていかない用事の数々。
家事と子育てはエンドレスだ。24時間365日フルオープンのコンビニのよう。
私の育児は、今で言う「ワンオペ」だった。それも究極の。
平日、帰りが遅い夫は土・日も一人で遊びに出かけ、実家は遠い。
頼れる人は誰もいなかった。
さらに出産後、私の耳は悪くなった。聞こえない。人との会話ができない。
母からは息子の言葉の遅れを心配され、難聴者協会の会長からは「子育てはダンナさんに任せなさい」。電話して誰かに相談しようにも聞こえないのでは無理だ(当時、インターネットはまだ浸透していなかった)。
そうした八方ふさがりの中で、私の「ママモビルスーツ」はどんどん厚く硬くなっていった。
「私がやらなきゃ誰がやる」
その一心だった。
「ママモビルスーツ」は、自分の責任感の強さや、パーフェクトにやりたい性格も災いしている。何事も一人で完璧にこなそうとしてしまうのだ。
今、一人っ子の息子が家を出ていって、母としての役割が薄くなり(というか、なくなり)、「ママモビルスーツ」を着用する必要がなくなった。
ヨレヨレになった「スーツ」。
しかし、最初から、誰からもそんなものを着込んでくれと頼まれてなかったのだ。
それを息子のいないぽっかり空いた部屋で思う。
硬いモビルスーツでなくて、もっと柔らかいスーツがよかったな。
あーあ、やっちまった。
「息子よ、ごめん」と今頃言っても仕方ないよね。
一人で戦闘スーツを着込んで闘わなくてもよかったのだ。
夕飯のおかずも少なくてよかったのだ(いや、実際も少なかったのだが)。
「ママモビルスーツ」なんかいつでも脱いでオッケーだ。
だいたい私は「ママ」という言葉を自分に当てはめるのが気持ち悪い。
そんな感覚です。
引っ越しの見積もり、46万と4万
今春、息子が就職で地方都市に引っ越すことになった。
そこで引っ越しの見積もりを、引っ越し予定日の1カ月半前にとったのだが、4社に連絡して来てくれたのは1社のみ。
2社はもう無理とのことで、1社は電話見積もりだった。
来てくれたA社の見積もり額は、46万円。
「800キロという距離だけで26万かかります。
作業員は3人。その費用は8万です」
他にもいろいろとありまして、トータル46万と。
息子の荷物は、ものすごく少ない。
服と靴は、それぞれ箱1個で十分。
家電は一切ない(お店から直接送ることにしていた)。
家具は3点。机と小さめの棚が二つ。
あとは日常生活品と台所用品やゴミ箱ぐらい。
それでもA社は作業員が3人で、46万円だと。
今年は引っ越し難民が出ていますとニュースでもやっていたが、確かにこれでは高すぎて引っ越せない。
そこで電話見積もりだけのもう1社が「10万」というので、そこに決めた。
そうして搬出日に、実際に荷物をコンテナに詰めてみたらコンテナ1個に納まり、費用も約4万円になるという。
10万という見積もりは、コンテナ2つ分だったのだ。
つまりA社の約11分の1。
こうなると、ここまで安くて申し訳ないなと思ったり、ここまで差が出るなんてすごいなと感心したり。
結局、引っ越し先では予定日に荷物が届かなくて、その日ホテルに泊まったので、ホテル代1万7千円分(2人分)余計にかかったが、それでも46万よりはるかに安くついた。
私は今まで10回ほど引っ越したことがあるが、46万はそのなかで一番高い見積もり額だ。
一昨年、リフォームのため2キロぐらい離れた場所に、3LDK内の家具も家電もいっぱいの状態で引っ越ししたが、それでも10万円だった。
シーズンオフとはいえ、安かった。
これから引っ越す予定のある方で、春先の引っ越しハイシーズンにしかできない方は、よくよく戦略的にするしかない。
もう年内に予約を取るとか。
でも、そうすると物件の予約も早めになってしまう。
物件は押さえてないけど、引っ越しの日だけは押さえておくとか、できるのだろうか。
ともかく、11倍の値段差に驚いた今年の引っ越しであった。
再開
落ち着いてきたので、非公開にしていたここを、また公開にしてみました。
非公開にしている間に、人工内耳の手術を受け、聞こえが劇的に快復し、自分が施主となって貯金をぶちまけて住んでいるマンションの全面リフォームし、そのリフォームをしている間は徒歩10分のところに引っ越してました(つまり約3カ月のうちに2回引っ越し)。
そして去年の3月、4匹いた猫のうち1匹が亡くなりました。
19歳でした。
リフォームはトラブルだらけで、最近、北側の壁にカビが生えてきたので、施行会社に連絡しようと調べてみたら、倒産したと。
Googleでそこの会社名を入力してみると、「○○ 夜逃げ」と出ました。
電話も通じません。
本当にいろいろありました。
真っ黒な感情
「年賀状で子どもの写真が嫌いだ」という意見は、ある一定の肯定を得ているようだ。
子どもの写真ではなくて本人の写真を見せろ、というまっとうな意見もある。
確かに。
私は友人の子ども写真の年賀状を見て感情を揺さぶられることなんかないと思っていた。
「うん、みんな元気でやっているな。うんうん」
年賀状の報告は報告。自分は自分。そう思っていた。
しかし、今年になって友人から
「子どもは○歳と×歳。就職して家を出て、今は夫婦二人。私は何々に勤めています」
なんて文面を見ると、「どうして私はこういう家庭を築けなかったんだろう」と思ってしまった。
黒い感情が吹き出した。
なんてことだ。
嫌だなあ、自分。
「人と比べるなんてばかげている」と正論で自分を収めようとする。
でも、真っ黒な感情は頭をもたげて、外の様子をうかがっている。
きれいに消すのは難しい。
私は聴覚障害を持っていて、日常生活の中でいろいろ制限を受ける。
仕事はしているが、自活できるほどの稼ぎはない。
家庭もうまくいってない。
それでもなんとかやってきて、私も年賀状に明るく「仕事しています」など書いていたが、今年はネガティブな気持ちにしかならない。
なぜだろう?
黒い感情はふわふわと空中を漂う。
時間が経てば、きっとどこかに飛んでいくはずだ。
黒い感情に気づいた方がうかつに人に黒い感情を披露しなくなる、のではないか。
鈍感にならないですんでいる、かもしれない。
そう思っておこう。
ガメラの歌をもう一度
映画「ガメラ」の主題歌。
わたしは自転車に乗るたびに、それを思い出す。
桜が散り始め、そろそろ上着もいらなくなってくる頃。
わたしは当時3歳の息子を自転車の補助いすに乗せて、よく外に連れて行った。
補助いすとは、自転車のハンドルにつけられる小さないすのことだ。
手軽に子どもを自分の自転車に乗せられる、危なっかしい便利グッズといえる。
その日もわたしは息子を補助いすに乗せて、駅から自宅に向かう坂を下っていた。
4月の穏やかな天気のなか、風を切って走るのが気持ちがよかったからか、息子はいきなり歌い出した。
「ガ〜メラ〜、強いぞガメラ〜。ガメーラ〜、ララララ〜」
大きな声で歌う歌う。
道行く人は、当然振り返る。
「やめてー」と思うものの、気持ちよく歌っているのを止めるのもなんだかなと思ってそのまま。
クスクス笑われつつ、歌っている本人は注目を浴びていることには全く気がつかず、まるで自転車にくっつけたスピーカーのよう。
いつまで歌っとんじゃこいつは・・・。
そろそろやめて欲しい。
こんなラジオ付きの自転車のつもりはない。
わたしだけが焦る。
結局、家に帰るまでの10分ぐらい、息子はずーっと歌いっぱなしであった。
今、息子は23歳。
自転車に乗ってガメラの歌を歌う、なんてことは全くない。
全くないどころか、若者らしく友だちと騒ぐということもないし、自分の殻に閉じこもりがちで、鼻歌でさえ歌わない。そんな風に成長してしまった。
勝手なもので、そうなってしまうと「ガメラの歌」が妙に懐かしい。
あれは、子どもが元気に育っている証だったのだなあと、今頃、気づく。
子どもが成人してしまうと「元気でいる証拠」がわかりにくい。
日々、きちんとご飯を食べて、自分の居場所に出かけてくれれば、それが元気な証拠だとは思うけれど、あのガメラの歌ほどのインパクトがない。
うん、わたしはちょっとさみしいんだ。
息子よ、いつかカラオケで、「ガメラの歌」を歌ってくれないかな。
あ、そうだ。わたしが死ぬ前にお願いしようかな。
「ガメラの歌、プリーズ」
きっと息子は「は?」と言ったままフリーズするだろう。
とりあえず、YouTubeで「ガメラの歌」を探してみるか・・・。
君は裸で生きられるか
水は、水道をひねれば出てくる。
火は、スイッチひとつでつく。
食料は、お金があれば簡単に手に入る。
おおかたの日本人の生活は、水も火も食料も、一から自分で用意しなくとも整うのではないだろうか。
そうしたなかで、もっとおいしいものを食べたいとか、もっと高級な車に乗りたいとか、もっとおしゃれなバッグを持ちたいとか、日々わき上がる欲望と闘いながら、結局は毎日、お金の心配と目先の仕事や家事だけでキリキリしながら過ごす。
おおかたの人の生活はそうなのではないかと思う。
私も生活力のない人間として、文明の発展に完全におぶさった状態で過ごしている。
自分で水を探すだの、火をおこすだの、全くできない。
それどころか、自分の食い扶持も稼げてない。
そういう文明に慣れきった私に強力なパンチをみまう番組が出現した。
「ザ・無人島生活」。
ディスカバリーチャンネルで先月まで放映されていた。
服なし、水なし、ナイフなし。
食料も持ち込まず、たったの一人で無人島で60日間も生活するドキュメンタリー。
チャレンジしたのは、エド・スタッフォード。
元イギリス陸軍で探検家。アマゾン川全域踏破でギネス記録保持者。
肉体も健康的で、見るからに強そうだ。
そんな彼が本当に“裸”一貫で無人島生活。
それは思ったよりずっと困難の多いものだった。
まず、水の確保がむずかしい。
人間、食べ物は1週間なくても大丈夫だけど、水は3日飲めないとダメなんだそう。
飲用に適する水を探す。これがどんなに難しいことか。
そして、火。
文明の証。人と動物が違う大きな一点。
この二つの確保に苦労するエド。
「無人島生活」の最初の頃は、サバイバル番組の王者ベア・グリルスの真似っこかと思って軽く見ていたけれど、番組が進むうちに、服を着てナイフも持ってサバイバルしていたベアさんとは次元の違った困難さに、だんだん目が離せなくなり、背筋が伸びていった(もちろんベアさんもすごい)。
番組は淡々とエドだけを放映する。
ひな壇に座った芸能人が途中で映ってコメントをはさむ、なんてこともない。
画面には、ひたすらエド一人の生きるという苦労が流れるのみ。
テレビは、「あれは番組だから」と、画面と自分に一定の線を引いて見るというのが一般的な見方だと思う。しかし、「無人島生活」を見続けているうちに、何も持たない人間が、いかに今の文明社会を築いたか、そのすごさに気づいた。
そしていつのまにか、画面と自分との一線が消えていた。
ここまで強烈に人類の歴史を思い起こさせた番組も本も、今までなかったと思う。
たった一人で、何も持たずに、無人島生活。
カメラマンさえいない。
そのシンプルさにやられてしまった。
エド個人のキャラクターもいい。
濃い顔に濃い身体。
彼ならきっと最後までやり遂げるはずだ。
そんな彼が火おこしに失敗すると、まるで子どものような泣き顔になる。
そのギャップと共感。
テレビに映っているのは21世紀の人間なのだけど、きっと何万年前の人間も、あんな顔で失望していたのだろう。
番組が終わり、今の自分の生活を振り返れば、なんて恵まれているんだと思う。
サバイバルしなくても、夜、暖かい布団で眠れる。
すごいことではないか。
そのすごさを今の私たちは普段、感じることが少ない。
震災も今の生活が当たり前ではないと強烈に思い出させてくれたけど、エドの「無人島生活」もしっかり私にパンチをくらわせた。
文明はありがたい。
今の豊かな生活は、太古から人が営々と築き上げてきたものだ。
コツコツ変えてきたのだ。
「ザ・無人島生活」で私は心の奥底にある何かのスイッチが入り、今までと世界の見方が変わっていった。
おいしいものを食べたいとか、好きな服を着たいとかの欲望を客観的に眺められるようになり、本当にそれは必要なのかと思うのだった。
とはいえ、時間が経てば、反省もどきはすぐに忘れてしまう。
すぐに「あれが欲しい」「これを変えたい」とネットで通販サイトをググって時間をつぶす。
私も裸一環でサバイバルした方が・・。
いや、絶対にしたくない。
殺されると思った瞬間
わたしには一度だけ、人から本当に殺されると思った瞬間がある。
それは20数年前のアフリカ駐在時のことだ。
夫は出張で不在。夜中の1時過ぎ。わたしはお風呂に入っていた。
するといきなり家のアラームがなった。
アフリカのその国は泥棒が多く、泥棒と家の中で鉢合わせると、まず命はないものと思えと言われていた。
「泥棒なのか?」
急いで服を着て、他の部屋の明かりをつけつつ、家中を見て回る。
すると・・・台所の外に背の高い男の人が!
「きゃーーーーーーーー!!!」
どこからそんな声が出るんだろうと自分でも思うほどコントロールできない叫び。
しかし、その後は全く声が出ない。身動きもできない。
ただただ息が止まって立ちすくんで、「ああ、わたしは殺されるんだ」と思った。
そのときの恐怖心は、いまだ具体的に思い返すことができる。
みぞおちが熱くなり、全身の細胞が恐怖でパニックになり、そしてその全ての細胞が「殺されたくない」と訴えた。
死にたくないとの思いは、細胞単位だった。
命は、生きよう生きようとプログラムされていて、理不尽な形での死には全力で拒否する。
細胞レベルでは、生きることを簡単には諦めないのだと思う。
それがきっと生命というものなのだだろう。
結局、台所の外に立っていた男性は、アラームでやってきてくれた警備会社の人とわかり、泥棒もいなくて、「よかったよかった」で終わったのだけど、あの腹の底から「殺されるのはイヤだ」と思った感覚は、ずーっと消えないで残っている。
ある意味、「よい経験」をしたかもしれない。
わたしは”半うつ病”なので、朝起きたとき、「もう消えてなくなりたい」と思うことがある。
けれど、あの強烈な体験から、死ぬ瞬間、細胞が「しまった!」と絶対に言うと思うので実行はしないし、できない。
人を殺すこと、自分で自分を殺すこと。
それは細胞レベルで理不尽なことなのだと思う。