レモンパン

こんがらがっている、ちいさなじぶんのせいりのために書いています。

愛されていることはわかるんだ。

あなたは今、誰かにすごく愛されていると思っていますか?

 

この質問に間髪いれずに「YES」と言える人は、どれぐらいの割合でいるのだろう。

1割、2割・・もっと?

 

人の世界は複雑で混乱していてるので、「わたしは今、しっかり愛されている!」と笑顔で言える人は半分もいないかもしれない。

けれども動物は「自分が愛されることには敏感」で、よくわかっているし、しっかり気づいている。

 

うちの4匹の猫は、家族誰からも、たくさん愛されている。

そのことを猫たちはよくわかっている。

人にべったりくっついて甘え、100%安心しきって身をゆだねる。

ご飯やおやつが欲しければ、人の顔を見て要求する。

どこのうちの猫だって、普通にかわいがってもらっていればそうだろう。

 

猫は愛されていることに疑問を差し挟まない。

ここが、人と動物の違い。

 

人は、とにかく疑う。

自信がないから。不安だから。決め手に欠けるから・・。

理由はいくらでもつけられる。知能があるので。

 

人は動物ほど「愛されている」ことに安心はしない。

だから、動物の世話をしっかりして、その動物が満足している様子を見ると、

「愛されていることを信じて安心している姿」に心が和むのだと思う。

 

うちの4匹の猫のうち1匹は、あまり頭がよろしくない。

でも、愛されていることは、しっかりわかっている。

少しの疑問もはさまないし、わたしを完璧に信用してくれる。

バカな子ほどかわいいというけれど、まさしく。

 

人も「愛が欲しい」ともがくなら、素直になるしかない。

疑う弱さを捨てるしかない。

 

・・・なーんてね。

人は無理かもね。

 

お金のある不幸

私は4人兄弟だ。

昭和の高度成長期に育った。

海に近い里山の裾に住んでいて、近所にスーパーはなく、信号もなく、買い物に不便な場所だった。

父は教師で、そのお給料だけでは家計が厳しく、母は洋裁の内職をしていた。

4人の子どもを腹いっぱい食べさせるために、父は時々裏山にしかけをつくり山鳩や雀を捕った。

川や海では魚を釣り、それらをしょっちゅう食卓にのせていた。

たまに結婚式の引き出物で豪華なお弁当をいただいたり、ご近所の方からお菓子をいただくと、うれしくて仕方がなかった。

 

ケーキは年に一度か二度。

それは、生クリームではなくてバタークリームでできていた。

ホールケーキは家族で6等分するのだが、1ミリでも大きいのが欲しい。

クリスマスは我欲に燃えまくった。

クリスマスの博愛精神なんて、そんなものは一切ない。

「もっとケーキを食べたい!!」

ケーキに対する執念だけのクリスマスだった。

兄弟に分けられたケーキを見て、「あいつのは私のより大きい」と妬む。

そしてケーキ以外のメニューは当然何もなかった。

チキンもおしゃれなサンドイッチもなくて、ご飯とお味噌汁に焼き魚を食べた後にケーキが出る。それがクリスマスだった。

 

しかし、今。

「クリスマスケーキ? 買うの面倒くさいな」である。

なんということだ。

 

現在、一人暮らしをしている田舎の母も金銭的には余裕があるらしく、何を送っても、喜んでもらえているように思えない。

とりあえず「ありがとう」と連絡はくるが、「待ってました!」という感じではない。

 

では、と、カタログから選べるものを送ったら、これもいまひとつ母にウケない。

食品もバッグも宝石も日用品も、とりあえず「いらない」らしい。

 

お金がなかった頃は、なんでもいただけばうれしかったのに、余裕ができるとうれしさは減ってしまう。

子どもの頃、あれほど切望したケーキも、年に一度ではなく、一か月に一度は食べられるようになると感動が薄らぐ。

 

そのことに、貧乏な頃は全く気づいていなかった。

子どもだったということを差し引いても、日常食べるものに困らないお金はあるのに幸福感が薄れる、なんてことは予想もしていなかった。

 

では、貧乏がいいのかというと、それはやっぱりイヤだ。

以前、ある事情から3日間の現金が500円しかなく、それで家族3人やりくりしないといけなかったときは、実にしんどかった。

スーパーで3品しか買えない。

その代金を支払ってしまったら、病院にも行けない。

レジ待ちのとき、前の人が1万円札で払っているのを見て、うらやましいと思った。

あの心細さは今でも忘れられない。

 

だからといって宝くじ一等ほどの余裕があれば幸せかというと、そうでもないのではないか。

 今、お金に困っていて大変でつらい思いをしている人からは、「お前、バカか」と言われそうだが、私は言いたい。

 

金持ちは感動も刺激も薄くなってしまうのではないかと。

何でも好きなものを好きなときに手に入るのは、おもしろいのだろうか? 前の晩から寝付けないほどワクワクするのだろうか?

手に入りにくいから、手に入れたときにうれしい、のだと思う。

 

日本橋千疋屋のケーキには感動する。

上品でおいしくて、このヒミツを教えてくれと言いたくなる。

けれど、あの年に一度しか食べられなかった山崎製パンのケーキの「感動」には及ばない。

味で勝って、感動で負けている。

ま、比べるもんじゃないとは思うけど。

 

貧乏だったから、おそろしくおいしく思えたあのケーキとは、もう出会えない。

 

朝日の「吉田調書」報道はよくないけど、間違うことへの行きすぎた圧力はどうなのか

まあ、文春も新潮も浮かれてますこと。

うれしそうに朝日新聞の「吉田調書」報道の間違いを記事にしている。朝日も他社にそういうことがあればうれしそうに報道しているので、どっちもどっちもか。「いじめはイカン」という記事を載せつつ、それはまるでいじめのようである。集中攻撃。「ほうら、みたことか」「いつも高慢な朝日、ざまあみろ」みたいな。報道機関も泥の投げ合いで、はずかしい。

 

新聞紙面には矛盾がいっぱいで、間違ったことを報道するのは今にはじまったことじゃない。「絶対に正しい」「絶対に正しいことだけしか報道できない」と思っている方が間違っている、と、わたしは思う。

なぜなら、報道する素材の選び方から、もう選んだ人のバイアスが入っているから。「これがいい」「これを報道したい」。その選ぶ基準は、できるだけ「公平」な目で選ぶように訓練されているのが新聞記者。ですが、人はどうしても自分の枠を超えられず、その人自身のバイアスが素材選びから入ってしまう。

 

だから「間違った」と言って責めすぎるのは、どこかおかしい。

いや、もちろん、「間違う」ことは報道機関にとって許されないことだ。事実確認を慎重に慎重に、何人もの目を通して確認する。それがプロ。特に新聞は、ファクト(事実)の報道に重きをおくが、100%確実な真実・事実って、どこにあるのか?

そういえるのは、事件から時間がたって、多くの人の取材を通して、もう「これしかいえないのでは」というほど検証に検証を重ねた場合だけではないか。だいたいの記事は、「間違いではないけど、もしかして間違っている場合もある」というふうに読んだ方が「幸せ」。つまり、新聞記事は「ふーん、そうか」ぐらいに斜めに読んでおく、というのがわたしのスタンス(でもしかし、訓練された記者さんなんだから、一般の方が取材して記事を書くより信頼できると思っている)。

 

「吉田調書」の報道検証に関しては、あの「撤退」というタイトルをつけたのが誰か、ということまで踏み込んで公表していない。


5月20日付朝刊「『吉田調書』入手」の記事について ── 朝日新聞による発表全文 | THE PAGE(ザ・ページ)

そこは社員を守っているんだと思う。

わたしが読売さんと仕事をしたとき、「新聞記事のタイトルは、書いた人とは別の人がつける。それはできるだけ広い目で見るため(偏らないため)」だと、読売の記者さんから聞いた。そのことからわたしの中では、新聞記事の中身とタイトルは、別の人が必ず書くというふうにインプットされた。朝日でもそうではないだろうか。

 

取材班が記事を出して、その記事にタイトルをつけるとき、なぜ、誤った思い込みをしてしまったのか。「吉田氏の一部発言の不掲載」については、「吉田氏の発言の評価を誤った」としている。それでタイトルも吉田調書に再度あたらず、つまりよく読まず、ミスリードしてつけた、なのだろうか。

それとも最初から恣意的な取材をしてしまったのか。そこまで踏み込んで調べて、「正確」に報道しないと、人の間違いがうれしくてはしゃいでしまうバカちんたちを、ますますつけあがらせてしまう。

 

とにかく、朝日新聞による発表全文も、A4 1枚に収めたため、中身が足りないと思う。

 

大勢が、目を皿のようにして調べたのに、活字にしたとき、どうしてこんな間違いが! ということは、けっこうある。人間だから、誰も彼も間違ってしまうのだ。朝日みたいに朝刊一面のタイトルに大きな誤報、というのは滅多にないけれど。

 

この一連の騒ぎで、「間違っちゃいけない」「間違うと、あんなに叩かれる」と思ってしまうのが、一番怖い。

人は間違う存在だ。間違って間違って、なにか見つけたりするし、新しい局面に進めたりする。だから、よってたかって叩くようなやり方で報道するのは、なんだかな。

 

そういえば、佐村河内さんのことでも、STAP細胞のことでも、報道スタンスはどの媒体でも似たようなものだったな・・。

 

 

発情

昨日は巨大ショッピングセンターのフードコートで仕事をしてみた。

 

フードコートは、いい。

コーヒー1杯100円とか200円で、何時間でも粘れる。平日だから。空いているから。適度なざわめきと人の出入りが、よい刺激になって、家で一人仕事をするよりはかどる。

 

と思っていたら、前方10mに勉強するフリをしていちゃつく中学生らしきカップル。

高校生かもしれないけど、それならきっと高1だ。

それを人前でするの? なベタベタぶり。

つい、目がいってしまう。顔を上げれば目に入る。

 

イスに横に並んで腰掛けている二人。

男子が積極的で女子の後ろに回って、しきりに首筋などにキス。

両手は女子の胸にいくことも。

若い発情した男女。どこかで見たことのある光景だと思う。

おお、そうだ。テレビで見たよね。ライオンとかサルとかね。

動物としてしごくまっとうな姿。

つまりわたしは今、野生の王国アワーのまっただ中にいるんだ。

 

机の上の資料と、目の前で展開するシーンのあまりの落差に、「これだから外での仕事はおもしろい」と思わずにいられない。

わたしはちょっと口が読めるので、女子の言うことを悪いけど読み取ってしまった。

「いや」

だよねー。それしか言うことないよね。

「もっと」なんて口が裂けても言えないよね。

 

中学生ならホテルなんか行けないし、彼らカップルを見て、「ああ、大人でよかった」と、つくづく思ったものです。大人はいろいろ選択できる自由があります。

仕事は、ほぼ順調に仕上がりました。

 

スクラッチカードは大勢で楽しむべし

先日、とある駅前でのこと。

大学生っぽい男子3人が宝くじ売り場で、スクラッチカードを削るのに夢中になっていた。

「これで1万当たったら、うまいものでも食おうぜ」

「今日の飲み会の費用、稼げないかな」

「100万当たったらどうする」

などと、話していたのだろうか。

 

ともかく、三人とも楽しそうなこと楽しそうなこと。いいなあ。

 

学生さんたちを見かけたのは、駅の東口であった。

その後、西口のデパートで買い物して、駅構内を通ると、その学生さんたちもいた。

女の子と待ち合わせしていたみたいだ。みな、とてもうれしそう。

「なるほど〜、これからコンパなんだ」

 

じゃ、さっきのスクラッチカードは今日のコンパ代?

1000円でも当たっていたら盛り上がるし、「俺ら、スクラッチで当たったから、今日はおごるよ」と言える。

 

クラッチカード、そっか、みなでやれば楽しいんだ。

(でも、高額当選すると、単純に割り切れなくて、まずいこともあるかもね。)

夏休みは嫌い

夏休みがパラダイスだったのは、学生時代まで。

 

社会人になってからの夏休みは、たったの3日間しかなかった。

それでも週休1日の会社だったから嬉しいことは嬉しかったが、帰省もできないし、ただただ、あっという間に終わってしまった。

 

夏休みが最悪だったのは、結婚して子どもが産まれ、その子が幼稚園に行くようになってから中学生ぐらいまで。つまり、我が子どもの義務教育時代。

 

夏休みといっても、友だちとの約束や、プールの予定があり、親も参加しないといけない宿題もあって、朝の5時から息子の友だちが訪ねて来ることもある。

お昼ご飯も毎日つくらないといけない。

たまには息子の友人の分もつくる(そういうときに限って失敗する)。

 

親にとっては子どもの夏休みは、気が休まらない。

 

さらにうちの息子の趣味は虫捕りだったので、暑い中、セミだのトンボだのカブトムシ捕りに付き合い、一日中、外出。

小学生も高学年になると付き添いはしなくなったが、雨が降っても虫虫虫。

近所でも「虫捕りおばさん」として有名だった。

もう少し違うことで有名になりたかったのに。

 

一人で集中する時間のとれない夏休み。

こんなに自分の親も大変だったのだろうかと、今になって気づく。

そういえば我が家は、夏休みと冬休みには、母の実家に行っていたな。

やっぱり親もしんどかったのだろうな、嫌いかどうかはヌキにして。

 

夏休みを楽に過ごす方法を開発したいものだ。

 

 

文の個性はレンジフードの油のよう

一般の方でも、プロのライターさんが書いたものでも、作家さんの作品でも、文章にはその人の人格や品格や匂いがにじんでいる。文は人なり」。だから、文章を読めば、誰が書いたものなのか、ほぼ特定できるし、その人がどんな人かもうっすらとわかってくる。文章は怖い。

 

細かな言葉使いから漢字の使い方、句読点の打ち方、文頭、結語・・。

いろんな言葉がその人を表している。

 

わたしは性格が乱暴でサバサバしているので、文章もそんな感じになってしまう。気をつけていても、サッパリサバサバ、はっきりした物言いで色気がない。もう少し細やかで、やさしい雰囲気で、上品で、落ち着いていて・・そんな文章を書いてみたいのに、なかなかそうはならない。

 

メールは、もっと書いた人物がわかる。

誰からきたと表示されていなくても、メール本文だけで、誰が書いたメールなのかがわかる。

それは、メールは紙より添削しないで、書いたらさっさと送信するからだと思う。

 

男性が女性にあてて書く「貴女」という表現。

何度かそういう表現のメールを受け取ったことがある。

 若い人からも年取った人からも「貴女」と書いたメールを受け取った。

「“貴女”って、今の時代、どうして書くのかな」と思った。

男性の方はメールで女性から「貴殿」と呼ばれたことがあります?

フォーマルな場面ではなくて、女性からのプライベートで。

 

女性が「貴殿」を滅多に使わないのに反して、男性では「貴女」を使う人をしばしば見かけるのは、男性が女性を「なにか特別なものにしておきたい」という感情があるからではないかと思う。

 

普段は文を読んだだけで、その人の性格などを詮索はしない。もちろんです。

でも、なにかあると、「この人は本当は何を考えているんだろう」と思ってしまう。

 

そういえば、私の大好きなアメリカのテレビドラマでも、書かれた文章で個人を特定するプログラミングがでてきたし、FBやTwitterでも、そのアドレスの個性占いもあった。

 

個性は、生きているものにベッタリ貼り付いていて、なかなか取れない。

まるで、レンジフードの油・・。

つまり、レンジフードの油みたいなのが、メールの文章についているということか。

後味のよくない終わりになってしまった。