チビの死
去年の3月28日、チビが死んだ。
チビは公園の桜の木に登って降りられなくなっているのを、まだ小1の息子がつかまえてきたコだ。息子は捨て猫らしいチビを飼うと言ってきかず、その公園には車で来ていたのだが、チビを抱え込み車から出なくなった。
じゃ飼うしかないか。
そうして家のコになった。
チビという名も息子が付けた。
単純に小さいからという理由。小学生らしい。
でも本当は「チビラ」という名なのだ。ゴジラやガメラと同じように。しかし、誰も本名では呼ばなかった。当然だ。「チビ」の方が呼びやすい。
目が青く、気の強い女の子だった。
その目の青さが珍しがられ、皆から「かわいい」と言われた。
煮干しとおかかとブロッコリが大好きで、息子の腕枕で寝た。
そんなチビも18歳頃から不調が目立つようになり、週に何度もお医者さんに連れていくようになった。足腰が弱り、顔をあげて歩けなくなり、まるでゾンビのようになったときは、もうダメかと思ったが、ビタミンKが不足しているとのことでビタミンKを飲ませると復活した。
よかったよかったと思ったのも束の間。チビは徐々に体重も食欲も減っていき、それらは決して元に戻らなかった。
そうして3月26日の土曜日。
「何も食べないんです」とお医者さんに駆け込んだ。
点滴をしてもらい、お医者さんと話しているうちに、お医者さんの言葉のハシから「もう本当に終わりなんだな」と思った。
翌日曜日。
お医者さんに連れていくかどうか迷ったが、静かにさせてあげようと思った。
水さえ受けつけなくなってから2日が経っていた。
そして日曜の深夜。
まだ息をしているチビを確認して、私は1時半頃に休んだ。
息子は2時近くまで起きていて、そのときもチビは生きていたそうだ。
しかし、朝の5時半。ハッと起きて駆け寄ると、チビは硬く冷たくなっていた。体温のかけらもなかった。
私はチビを抱いて見送ってあげることができなかった。
それが今でも心残りだが、チビは私に「死の尊さ」を教えてくれた。
「死って生と同じぐらいに、いや、それ以上に尊い」
ガツンと教えられた。
どういうことかというと。
細胞が死に向かうと、地球上のどんなものをもってしても、どんな人であっても、止めることができない。多少は遅くすることができても、ストップはかけられない。死は、その人独自のもので、誰からも邪魔されるものではない。生よりオンリーワンなものなのだ。生は、他人から干渉を受けやすい。あれこれ口出しされたり、意に染まないことをやらないといけなかったり。しかし死はもう誰も干渉のしようがないのである。死んでいくことは、その人だけのものだ。
そこに死の「尊さ」があるんだなあと。
だからこそ、その人の死を勝手に奪ってはならないんだなあと。
そういうことをチビから教えてもらったのでした。