レモンパン

こんがらがっている、ちいさなじぶんのせいりのために書いています。

朝日の「吉田調書」報道はよくないけど、間違うことへの行きすぎた圧力はどうなのか

まあ、文春も新潮も浮かれてますこと。

うれしそうに朝日新聞の「吉田調書」報道の間違いを記事にしている。朝日も他社にそういうことがあればうれしそうに報道しているので、どっちもどっちもか。「いじめはイカン」という記事を載せつつ、それはまるでいじめのようである。集中攻撃。「ほうら、みたことか」「いつも高慢な朝日、ざまあみろ」みたいな。報道機関も泥の投げ合いで、はずかしい。

 

新聞紙面には矛盾がいっぱいで、間違ったことを報道するのは今にはじまったことじゃない。「絶対に正しい」「絶対に正しいことだけしか報道できない」と思っている方が間違っている、と、わたしは思う。

なぜなら、報道する素材の選び方から、もう選んだ人のバイアスが入っているから。「これがいい」「これを報道したい」。その選ぶ基準は、できるだけ「公平」な目で選ぶように訓練されているのが新聞記者。ですが、人はどうしても自分の枠を超えられず、その人自身のバイアスが素材選びから入ってしまう。

 

だから「間違った」と言って責めすぎるのは、どこかおかしい。

いや、もちろん、「間違う」ことは報道機関にとって許されないことだ。事実確認を慎重に慎重に、何人もの目を通して確認する。それがプロ。特に新聞は、ファクト(事実)の報道に重きをおくが、100%確実な真実・事実って、どこにあるのか?

そういえるのは、事件から時間がたって、多くの人の取材を通して、もう「これしかいえないのでは」というほど検証に検証を重ねた場合だけではないか。だいたいの記事は、「間違いではないけど、もしかして間違っている場合もある」というふうに読んだ方が「幸せ」。つまり、新聞記事は「ふーん、そうか」ぐらいに斜めに読んでおく、というのがわたしのスタンス(でもしかし、訓練された記者さんなんだから、一般の方が取材して記事を書くより信頼できると思っている)。

 

「吉田調書」の報道検証に関しては、あの「撤退」というタイトルをつけたのが誰か、ということまで踏み込んで公表していない。


5月20日付朝刊「『吉田調書』入手」の記事について ── 朝日新聞による発表全文 | THE PAGE(ザ・ページ)

そこは社員を守っているんだと思う。

わたしが読売さんと仕事をしたとき、「新聞記事のタイトルは、書いた人とは別の人がつける。それはできるだけ広い目で見るため(偏らないため)」だと、読売の記者さんから聞いた。そのことからわたしの中では、新聞記事の中身とタイトルは、別の人が必ず書くというふうにインプットされた。朝日でもそうではないだろうか。

 

取材班が記事を出して、その記事にタイトルをつけるとき、なぜ、誤った思い込みをしてしまったのか。「吉田氏の一部発言の不掲載」については、「吉田氏の発言の評価を誤った」としている。それでタイトルも吉田調書に再度あたらず、つまりよく読まず、ミスリードしてつけた、なのだろうか。

それとも最初から恣意的な取材をしてしまったのか。そこまで踏み込んで調べて、「正確」に報道しないと、人の間違いがうれしくてはしゃいでしまうバカちんたちを、ますますつけあがらせてしまう。

 

とにかく、朝日新聞による発表全文も、A4 1枚に収めたため、中身が足りないと思う。

 

大勢が、目を皿のようにして調べたのに、活字にしたとき、どうしてこんな間違いが! ということは、けっこうある。人間だから、誰も彼も間違ってしまうのだ。朝日みたいに朝刊一面のタイトルに大きな誤報、というのは滅多にないけれど。

 

この一連の騒ぎで、「間違っちゃいけない」「間違うと、あんなに叩かれる」と思ってしまうのが、一番怖い。

人は間違う存在だ。間違って間違って、なにか見つけたりするし、新しい局面に進めたりする。だから、よってたかって叩くようなやり方で報道するのは、なんだかな。

 

そういえば、佐村河内さんのことでも、STAP細胞のことでも、報道スタンスはどの媒体でも似たようなものだったな・・。