お金のある不幸
私は4人兄弟だ。
昭和の高度成長期に育った。
海に近い里山の裾に住んでいて、近所にスーパーはなく、信号もなく、買い物に不便な場所だった。
父は教師で、そのお給料だけでは家計が厳しく、母は洋裁の内職をしていた。
4人の子どもを腹いっぱい食べさせるために、父は時々裏山にしかけをつくり山鳩や雀を捕った。
川や海では魚を釣り、それらをしょっちゅう食卓にのせていた。
たまに結婚式の引き出物で豪華なお弁当をいただいたり、ご近所の方からお菓子をいただくと、うれしくて仕方がなかった。
ケーキは年に一度か二度。
それは、生クリームではなくてバタークリームでできていた。
ホールケーキは家族で6等分するのだが、1ミリでも大きいのが欲しい。
クリスマスは我欲に燃えまくった。
クリスマスの博愛精神なんて、そんなものは一切ない。
「もっとケーキを食べたい!!」
ケーキに対する執念だけのクリスマスだった。
兄弟に分けられたケーキを見て、「あいつのは私のより大きい」と妬む。
そしてケーキ以外のメニューは当然何もなかった。
チキンもおしゃれなサンドイッチもなくて、ご飯とお味噌汁に焼き魚を食べた後にケーキが出る。それがクリスマスだった。
しかし、今。
「クリスマスケーキ? 買うの面倒くさいな」である。
なんということだ。
現在、一人暮らしをしている田舎の母も金銭的には余裕があるらしく、何を送っても、喜んでもらえているように思えない。
とりあえず「ありがとう」と連絡はくるが、「待ってました!」という感じではない。
では、と、カタログから選べるものを送ったら、これもいまひとつ母にウケない。
食品もバッグも宝石も日用品も、とりあえず「いらない」らしい。
お金がなかった頃は、なんでもいただけばうれしかったのに、余裕ができるとうれしさは減ってしまう。
子どもの頃、あれほど切望したケーキも、年に一度ではなく、一か月に一度は食べられるようになると感動が薄らぐ。
そのことに、貧乏な頃は全く気づいていなかった。
子どもだったということを差し引いても、日常食べるものに困らないお金はあるのに幸福感が薄れる、なんてことは予想もしていなかった。
では、貧乏がいいのかというと、それはやっぱりイヤだ。
以前、ある事情から3日間の現金が500円しかなく、それで家族3人やりくりしないといけなかったときは、実にしんどかった。
スーパーで3品しか買えない。
その代金を支払ってしまったら、病院にも行けない。
レジ待ちのとき、前の人が1万円札で払っているのを見て、うらやましいと思った。
あの心細さは今でも忘れられない。
だからといって宝くじ一等ほどの余裕があれば幸せかというと、そうでもないのではないか。
今、お金に困っていて大変でつらい思いをしている人からは、「お前、バカか」と言われそうだが、私は言いたい。
金持ちは感動も刺激も薄くなってしまうのではないかと。
何でも好きなものを好きなときに手に入るのは、おもしろいのだろうか? 前の晩から寝付けないほどワクワクするのだろうか?
手に入りにくいから、手に入れたときにうれしい、のだと思う。
上品でおいしくて、このヒミツを教えてくれと言いたくなる。
けれど、あの年に一度しか食べられなかった山崎製パンのケーキの「感動」には及ばない。
味で勝って、感動で負けている。
ま、比べるもんじゃないとは思うけど。
貧乏だったから、おそろしくおいしく思えたあのケーキとは、もう出会えない。