「前向きに生きる」ってなんだろう?
人に対する褒め言葉の一つに「前向きに生きる」がある。
こんなに大変な状況があるけれど、「前向きに生きていてえらいね」と。
人がその言葉を自分で言っている場合は、そっと応援したい。
失業したとき。
受験に失敗したとき。
大切な人を失ってどん底のとき。
なんとか今日を明日を乗り越えようとするとき、自分が自分で「前向きに」って言う。
「うん、そうだね」と思う。
なんの違和感もない。
しかし、他人から、「(あなたは障害があるのに)前向きに生きていますね」と言われると、大きな違和感がある。
「違う、そうじゃない。私は、そんなに明るく前向きに生きてない」
そう言いたいのに、場の空気を読んでニコニコしてしまう。
私がそこで「違う」と力説して、相手を驚かせていいのか。
長々説明して面倒くさいヤツと思われたくもない。
私への評価「明るく前向きな」人の理由は、私が外ではニコニコしていて、障害を吹っ切っているように見え、仕事もしているからだなのだと思う。
ニコニコは単なる癖。
長年の癖でしかない。
美人でもなく可愛くもないから、せいぜいニコニコしておこうという作戦だ。
障害を吹っ切ってもいない。
聞こえない障害の重さは、アフリカ象一匹より絶対に重いと思う。
いつも思うように人と接することができず、人の話すことを耳から聞けず、同意も反対もすぐにできず、相手の心もつかみづらい。
正直、自分は早く死んじゃった方が国のため、と思うこともある。
仕事・・。これもうまくいってない。
(これ以上書きたくない)
黒い感情が渦巻いているのに、それを上手に隠しているから、「前向きな人」と言われてしまうが、単に「後ろ向き」に歩くのがヘタなだけだ。
後ろ向き歩きは難しい。
だから「前向き」で歩くしかない。
実際、長時間、後ろ向きに歩き続ける人なんて、見たことないし。
いやいや、そういう物理的な話ではなくて、心理的な「後ろ向き」。
そうおっしゃるのはわかるんですけど、みなさんは勘違いをしている。
自分では過去やら失敗やら悲しみにとらわれて後ろを向いているようでも、人は物理的に前を向いて歩くようにできているので、心だって、後ろ向きに歩くようにはできてない。
後ろ向いているようで、前を向いている。
屁理屈でしょうか?
自分で「後ろ向き」と思おうが、「全く進んでない」と思おうが、それは構わない。
でも、後ろ向きに歩くのは難しいから、人の気持ちだって、本当は後ろ向きには進めない、いや、進んでないのではないだろうか。
というのが私の見解。
ということで、褒め言葉としての「前向きに生きている」は、ただそのまんまを言っているに過ぎず、後ろ向きと思って停滞していても、案外、足元にはしっかり道があったりする。
生きている限り、みな、それなりに前向きなのだから。
ただし、映画の『エクソシスト』のように顔自体が後ろ向いている人は別。
冗談です。
傷つかれた人がいましたら、ごめんなさい。
何事も例外というのはあって、もうどうしようもない、心が後ろどころか、はるか彼方原始時代ぐらいまで遡って戻って来られないってことは、よくある。
時間がストップするほどのショックとかも、あることはあるのだ。